認知症の人は「“認知症の人”という札」をかけられている

(和田)小学校5年生の頃、僕のあだ名が変態だったんですよ。

(町永)和田さんが変態?そのまんまじゃないですか(笑)。

それで、なんで変態って言われてたの?

(和田)当時は宿題をしていかないと、胸に「私は宿題を忘れました」っていう札を掲げられて、各教室を回されていたんですね。

(町永・戸谷)ひどい教員だなぁ…。

(和田)いや、当時のことであって、今は無理だよ!

そんなこともあったから、変態ってあだ名になったのかなと思うんだけど、僕から見たらお前らの方が変態だと。

僕はすごい変わり者とよく言われますけど、僕から見たら変わり者って言ってるお前の方が変わり者だよねって思うんですね。

(戸谷)相対的にね。

(和田)そう、人間は相対的だから。

変態と言っていた奴は、その相対関係がちゃんとわかっていなかったというか。

これは認知症になられた方に対しても同じことが言えると思うんです。

我々は自分の脳が壊れていないから「今この自分」でいられるんだけども、ふと「脳が壊れたときに、自分も認知症の方と同じようになるのかもしれないな」と思ったら、毛嫌いはできないと思うんですね。

脳が壊れたときに、自分自身を大事にしてもらおうと思ったら、「やっぱりこの人のことは大事にしておこう」と思うんじゃないかなあ。

そう思わずに、別の人として切り離しをしちゃうと、変態のあだ名につながるのかな。

(町永)そうですね。だから、今、和田さんが言ったように、宿題をしていかないっていうのは、たぶん当時の和田さんはほかにやりたいことがいっぱいあったからだと思うんですけども、それを理由にして学校中を回されるっていうのは認知症の人と同じなんですよ。

認知症になったら「認知症の人」っていう札をかけられて、みんなのところへ「困った人です」「社会からはじかれた認知症の人だ」と回されている。

ズレの埋め合わせを考えることが、社会のありようだと思う

(町永)だから私はね、「認知症予防」っていう言葉だけが一人歩きするのはちょっと違和感がある。

認知症予防って言った瞬間に「認知症はなってはならない病気」になるでしょう?

今の時代にできるもうひとつの予防っていうのは、和田さんの話にもあるように「認知症になったことでできなくなった暮らしのことを、工夫してできるようにする」っていうことだと思うんですよ。

(和田)そうだね。だから結局、庄原の街でできる一番簡単な解決方法を言ったら、「全員が認知症になる」こと。

そうしたら認知症ゼロの街になる。

(戸谷)そういうことですね。認知症っていう言葉がいらなくなっちゃう。

(和田)いらないよね、みんながそうなったとすれば。

つまり、何が言いたいかと言うと、脳が病気の人に、病気でない人と同じことをさせたときにズレが起こる。

このズレの埋め合わせをどういうふうにしていくかが、社会のありようだったり、支援のありようだったりするということなんです。