グループホームでの職務は”人権をかけた戦い”
歴史も含めて、あるいは未来も含めて「グループホームとはなにか」っていうことをきちっと語れる人がどれほどいるのかなということがすごく僕のなかでは疑問で。
グループホームを「認知症ケアの手段」くらいに思っていたら大間違いで、やっぱり「人権をかけた戦い」をしているんだっていうことをちゃんと肝に銘じて運営にあたっていただければなと思うんですね。
そういうふうに思っていたとしてもできないことだらけ、守れないことだらけですから、そのなかで「やっぱりグループホームは違うね」って言われることでしか存在感はないわけです。
でも、僕自身べつにグループホームっていう名称でなくて全然良いと思ってますし、認知症っていう状態になった人たちが生きていく場、あるいは暮らしを営む場、それを支える場がグループホームしかないっていうのも変な話だなと思ってます。
そう考えていくと、グループホーム云々ではなくて、暮らしを続けられるように”支援をしていく”っていうところに一番大事な要素がある。
そのうえでグループホームは制度的、仕組み的に他の事業よりもそれをやりやすい条件があるんで、ぜひそれを追求していただければなと。
家に帰りましたら介護保険法の一番最初をめくっていただきまして、目的をしっかり読んでいただきたいのと、認知症対応型共同生活介護の運営基準の一番最初に基本方針が書かれてますから、この基本方針をしっかり読んでいただきたい。
もうちょっと突っ込んだ人は解釈通知まで含めて、特別養護老人ホームと読み比べてみてください。
当時の役人たちがなにを目指したかというのがよく見えてきますんで。
ぜひ「特養と同じようなグループホーム」と言われないようにしっかり取り組んでいただければなと思います。
利用者の能力が下がったからそんなこと取り組めないとかって言う人もいっぱいいるんですけど、例えば胃ろうチューブを使う状態になったことと買い物に行けないことはイコールじゃない。
特養に勤めている方と話すと「要介護3以上が条件のうちではグループホームと違ってそんなこと無理だよ」って言う人がいっぱいいるんですけど、胃ろうチューブを使っている人が買い物に行けないかって言ったら全然行けちゃうし、こっちのものを買うかあっちのものを買うか、「どっちにするか」は選択もできる。
根っこにあるものをしっかりと考えて、大事にしていただきたい。
そうしたことに気づくのは人生のどの段階でも遅くないと思うんです。
「人は自分の力を発揮できる環境のなかでこそ人として輝いていく」のは当たり前の話。
それを介護事業っていうのは本当に腐らせてきたし、駄目にしてきた面もたくさんあるわけで。
それにメスを入れて、人としての自分の力、能力を開花させてくれる、あるいは人が互いに助け合って、手をつなぎ合って生きていくことを支援する”共同生活介護の実践者”がどんどんグループホームから出てきて世の中を動かしていただけたら、もっともっと日本の認知症の方々の暮らしぶりは変わってくるかなというふうに思うんですね。